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国々、すなわち東欧の共産圏諸国と南欧のワイン生産国やチリなどにおいても、1950年代前半にはアルコール問題に関する対策プログラムと政策が導入される運びとなった。かつて共産国ではアルコール症の存在自体を軽く考え、「共産圏の風上病」であるとみなし、アルコール摂取そのものに問題があるとは考えていなかった。また、ワイン生産国はアルコール症の問題に対する関心が高まって自国の経済に悪影響が生じることを恐れていた。
WHOがアルコール症の問題に関して行った重要な仕事の一つに、1950年代、E.M.ジェリネック(E.M.Jelinek)をアルコール症コンサルタントに任命したにとが挙げられる。彼の在任中には、ヨーロッパ及びチリにおける国際会議やアルコールに関する専門家委員会で、アルコール中毒者に適切な療養施設を提供することを重視し、保健当局のみならず、他の関連省庁も参加する国家的なアルコール中毒対策政策を確立することの重要性に焦点を当てた。
アルコール中毒を病気とみなす概念は歴史的観点からも有意義である。この分野の内外どちらにおいても、多くの場面でアルコールの問題(problems of alcohol)を、モラルの問題ではなく、健康上の、あるいは社会的問題として位置づけるようになったからである。またこの概念は、アルコール中毒の問題を扱う専門家、患者、アルコール飲料業界すべてに受け入れられる概念であるという点、それらに関わる人々の考え方を一方向に統一するという役割も果たした。さらに、アルコール中毒者につきまとっていた汚れたイメージを払拭するものでもあった。
1960年代には薬物使用が爆発的に増えた。この事実はアルコール対策プログラム(alcohol programmes)の進行に非常に現実的な影響を及ぼし、プログラムの基本原理にも多少の影響を与えるにととなった。
1963年までに、WHOの専門家委員会は薬物依存の概念を認め、薬物依存の一つを「アルコール・バルビタール型薬物依存症」と分類した。1966年にはWHOは、政府機関や非政府機関(NGO)がアルコールと薬物の問題を一緒に考えるよう導こうとする姿勢を明らかにした。アルコールと他の薬物中毒に対する予防と治療のための専門委員会がジュネーブで召集され、そこではアルコールと薬物の問題に関する「統合的」アプローチが推奨された。
この方針に対する反応は様々であった。すぐに「統合的」方策に賛成の意を表した国もあったが、多くの国は、アルコールは合法的な物質であるが、依存症の原因となる薬物の多くは非合法であるという理由などからこのような方策には乗り気でなかった。実際、今日に至っても、多くの国が「統合」というよりも「総合的」アプローチを行い、「統合」よりも「関連」という言葉を好んで用いている。WHOも即座に両者の完全結合を図った訳ではない。WHOの「薬物乱用に関するプログラム(Programme on Substance Abuse[PSA])」が成立したのは比較的最近になってからのことである。
第二次大戦以降現在に至るまで、更に緊密な国際間の協力体制が確立されてきた。1968年、ワシントンで開催された国際会議では、セルドンベーコン(Seldon Bacon)が次のように語った。「第28回アルコールとアルコール症に関する国際会議(The 28th Intenational Congress on Alcohol and Alcoholism)の目的は、何にも増して、非常に幅広いありとあらゆる種類の問題に直面する様々な異なるグループが、一貫した関連性、関係、方向性の感覚を発展させることである。会議参加者の国籍や地理的環境が様々であることに加えて、参加者の職業も広範囲に渡っており、生化学や疫学の専門家、神学者や経済学者、ソーシャルワーカー、警察官、医師、アルコ

 

 

 

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